松下幸之助さんの有名な言葉です。
戦後の混乱期をくぐりぬけ松下電器産業を大企業に育て、社長を譲り会長に就任していた
松下幸之助でしたが、1964年に危機を迎えます。
景気加熱への懸念のため金融引き締めがおこなわれ、くわえてオリンピック需要も一巡したため
家電製品の売れ行きは一転落ち込みます。
当時の松下電器の販売制度は地域による区分けがなく、ひとつの小売店が複数の販売会社、
代理店と取引していました。いきおい成績の良い小売店の取り合いになり、販売会社・代理店の
なかには赤字覚悟で値引きをして小売店をつなぎとめようとするところが出てくる。そのような過当
競争が続き販売会社、代理店の体力が落ちていました。そこへ金融引き締めをきっかけにした販
売不振が重なり、悪いのは本社ではないかという不平・不満が渦巻くことになりました。
日常業務から離れたとはいえ最高責任者、幸之助はこの状況に果断な処置をとります。
全国の営業所に「営業所長が同道し、販売会社・代理店の社長さんに一人残らずお集まりいた
だきたい」と指令を発し、熱海のホテルを会場に7月「全国販売会社代理店社長懇談会」を開催します。その際事務局には「今回の会合は日にちをきらない」「議題を用意しない」と告げます。
ふたを開けてみると懇談会は、さながら松下糾弾大会の様相を呈します。
「親の代から松下製品を扱っているがさっぱり儲からない。それどころか損が出ている。」
「売り方や商品が悪いのではないか」
当初は説得しようという気持ちの方が強かったのか、幸之助は「そうはいうても、すべてが赤字
やない。黒字のところもある。松下電器の製品は本来販売しやすいはずで、みなさん本当に
血の小便が出るまで苦労されたことはありますか。」とかなり厳しい言葉もはいた。だが、相手も
簡単には引き下がらない。「松下電器がしっかりしてくれないから、我々がこんな苦しい目にあっ
ている」と譲らず予定の二日間はあっという間に過ぎてしまった。
事態が動いたのは三日目。午前中までは前日のように平行線が続いていたが、午後になり
壇上の幸之助が突然頭を下げこういいだします。
「現状は分かった。いろいろ考えたが結局は松下が悪かった。この一語に尽きると思います。」
顔をあげた幸之助の目から一筋の涙が落ちた。騒然としていた会場はしーんとなり、続けて
幸之助は創業当時の思い出話を始めた。
「30年近く前、相撲で言えば幕下だった松下の電球を大いに売ってくださったのは皆さんでした。いまの松下があるのも皆さんがたのおかげです。・・・松下電器がまず改め、そのうえで皆さん
にも求めるものがあれば改善をもとめたい。売上の減少など、この際、問題ではない。
もう、誰が悪いわけでもなく心を入れ替え出直したい。」
幸之助の話が終わる頃には会場の大半が泣いていたといいます。
そして、「われわれこそ努力が足りなかった。これからはお互いに心を入れ替えて頑張ろう。」
という声が出て一致団結することを誓い合う結果となりました。
この熱海会談の3日後69歳の幸之助は営業本部長代行として現場復帰毎日のように出社して
陣頭指揮をとります。
幸之助はメインバンクの住友銀行の堀田頭取をたずね決意を示します。そのときの改革は三つ
の柱からなっていました。
1.一地区一販売会社制
2.事業部直販制
3.新月賦販売制度
この「新販売制度」は翌1965年より実施され、幸之助自身も自らお客様を訪問しました。
この効果が1966年より現れ業績はV字回復を始めました。
「経営の神様」松下幸之助という評価が広く世の中に定着したのは、この熱海会談後のことです。
長くなってしまいましたが、ものすごい情熱ですね。
今日からまた仕事に向かう勇気が出てきました。



